|
|
|
|
|
有田町の東北に、標高五百十八メートルの黒髪山がある。頂上には、天童岩という岩がそびえ立ち、珍しい植物も多く、県内では有名な山として知られている。この山の麓から流れ出る川は、白川を通り有田川となって流れる。

今からおよそ八百年程前、肥前国杵島松浦の領主、後藤左衛門佐高宗のお屋敷に、松浦郡有田郷(西松浦郡有田町)の百姓二、三人が連れだってやってきた。百姓たちは、「有田郷白川(西松浦郡有田町)という池に恐ろしい大蛇が住んでいて、あるときは黒髪山に登って、七つの角を振りながら天童岩を七周り半にもまいて、村人を悩まします。どうか大蛇を退治して村人をお救いくださいますように……。」と、身を震わせて口々に訴えた。高宗は、早速千人余りの兵を引き連れて有田郷白川へと向かった。しかし、大蛇は姿を現さなかった。が、兵を引き揚げると、大蛇はすぐに姿を現して、村人を苦しめるのであった。このようなことが、七、八回繰り返された。それでも、大蛇は、決して、高宗の前には姿を現すことはなかった。
高宗は都に上って、天皇にこのことを申し上げた。天皇は、「神の力にもおすがりして、鎮西八郎為朝と力を合わせて大蛇を討ち取るがよかろう。」と、為朝を遣わされた。高宗は都を発ち、屋敷に神主や家来どもを集めて、天皇のご命令を伝えた。早速武雄神社(武雄市)と黒髪神社(杵島郡山内町)では、大蛇退治のお祈りが始められた。高宗と為朝は、兵を引き連れて白川の池の近くで、大蛇が姿を現すのを今か今かと待っていた。
しかし、いくら待っても、大蛇は、その前に姿を見せることはなかった。 仕方なく、高宗は、黒髪山の麓に兵を引き揚げた。そこで、大蛇退治について色々知恵を絞った。(ここが評定場《西松浦郡有田町》と呼ばれている。現在はダムができ有田ダムとして広く町の人達の憩いの場となっている。)そのうち、「むかし、姫を使って八岐大蛇を退治したと聞きます。この度も美しい少女を池のほとりに据えておかれるならば、大蛇はきっと現れるでございましょう。」と申し出るものがあった。早速高宗は、大蛇の犠牲になる者には、褒美を与えるおふれを出した。
けれども、そのおふれに応じる者は、誰一人いなかった。
高瀬(武雄市西川登町)の里という山里に、姉を万寿、弟を小太郎という仲の良い二人がいた。姉は十六歳、弟は十一歳であった。父は松尾禅正之助吉道といい、領主高宗の家来の中では、肩を並べる者がない位、大変な手柄を立てた力のある人であった。が、わけもない他人の告げ口により、殿様のお咎めを受け、後にだんだん落ちぶれ、ついに三年前の秋、寂しく亡くなってしまった。今では家も貧しくなり、母も病気になっていた。姉と弟は、木の実を拾い、せりや苺を採って母をいたわり暮らしていた。
ある日、大蛇退治のおふれの事を知った姉の万寿は、弟を呼び、「のう、小太郎、よくお聞きなさい。このたび有田白川の大蛇退治のおふれに願い出る者があれば、ご褒美をくださるとのこと。今は父もなく、母も病の床に伏せられている。それで、私がお殿様に願い出て、大蛇の犠牲になろうと思います。お前は、お殿様から頂くご褒美にて、母に孝行しなさい。」と頼んだ。しかし、小太郎は、「姉がいなくなって、なんで私が生きることが出来ましょう。どうかその事だけは思いとどまって下さるよう………。」と止めたが、姉は、「さあ、小太郎よ、よく聞いておくれ。」と、更に言葉を強くして言った。そして、早速万寿は、高宗に、「命は、すでに覚悟の上、私の体を大蛇退治に役立てて下さい。」と申し出た。高宗は大変喜び、「さては、松尾吉道の娘か、少女の身で母や弟のため、命を捨てようとする勇気は立派である。」と願い出はすべて聞き入れられた。
早速白川の池の近くには、棚が作られた。長い髪を背中までたらし、綺麗にお化粧をして、立派な着物を着た万寿は、そこに座らされた。万寿の周りには、為朝をはじめ大勢の侍たちが弓矢を持ち、鎧を着て、大蛇が現れるのを、今度こそはと待っていた。
丁度その時、雲の間からぴかっと金色の光が走り、雷が響き渡った。そして、急に不気味な風が吹き、池には小さな波に続いて、山のような大波が打ち寄せた。すると、七つの角を振りながら鱗を逆立てた大蛇が、波の中から現れた。
この様子をじっと見ていた高宗は、少しも慌てず、ゆっくり弓に矢をつがえ、大蛇めがけてひょうと射た。矢は大蛇の額の所に突き刺さった。怒った大蛇は、口から火を噴いて、棚の上の万寿を一口に飲み込もうとした。この時、為朝は、大きな弓に長い矢をつがえ、大蛇の背中めがけて放った。
さすがの大蛇も二本の矢を打ち込まれ、池の中に姿を隠してしまった。すると、今度は、空に稲妻が光り、山も谷も崩れるほど天と地が動き出した。
暫くたって、大蛇は火を噴きながら逃げ出した。周りを固めた七千余りの兵は、少しも恐れず、どっと声を張り上げ、次から次へと矢を射かけた。大蛇はとうとう谷底(有田町泉山年木谷)へ転がり落ちてしまった。丁度そこを、梅野の座頭が通りかかって、短刀で大蛇の、喉首を切って落とした。村人を苦しめた大蛇が息絶えたところを、蛇頭山(西松浦郡有田町)と呼び今の地名にも残っている。
高宗は、早速お祝いの酒盛りを開いた。家来たちは、そこに酒の大樽、中樽、小樽を差し上げたのである。有田町には、この時の大樽、中樽、小樽(西松浦郡有田町)は、地名として今にいい伝えられている。
さて、大蛇を誘い出すために、棚に座らされた万寿は、危ないところで助けられた。そして、高宗をはじめ村人みんなから、大変褒め称えられた。弟小太郎は、名を松尾禅正之助吉春と改められ、父吉道の後継ぎに、高瀬の村を褒美として与えられた。
その後、土地の人たちは万寿姫をいつまでも偲び、高瀬の里に観音堂を建てた。そして、毎年十二月十八日には、万寿観音に人々が集まり、お祭りをするようになり、今も続いている。
また、松尾家を慕い、松尾神社(武雄市西川登町)を建て(祭神を京都の松尾大社から迎え、松尾家をこの神社に祭った)父吉道と弟小太郎を祭った。ここでも、毎年十二月十三日には、お祭りが続けられている。
大蛇退治の白川の池は、今池と呼ばれ、夏は子供たちの水遊びの場として、長い間、親しまれた。今はもう、白川辺りも沢山の家が建ち並び、大蛇を退治したと伝えられる池の感じは薄れている。

|
|
 |
|
|
|
草山窯うさぎのマーク
草山窯でよく使われるうさぎマークは、
前しか進めないうさぎから常に前を向い進んでいく草山窯のイメージとして多くの器などにも使用されています。 |
Since 2002/4/11 UP

|
|
|
|